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弥生ロマン。超古民家?を見てきました。

前々から気になっていた、池上曽根遺跡公園に行ってきました。岸和田のとあるホームオーナー様宅へお伺いした帰り道に、こっそり道草して来たことはヒミツです。

さて、池上曽根遺跡公園とは何ぞや?

という事で、以下和泉市のホームページよりの抜粋です。

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~二千年の時間をこえて・よみがえる弥生浪漫~

大阪府和泉市池上町を中心に南北1.5キロメートル、東西0.6キロメートルの範囲に広がる池上曽根遺跡は、総面積60万平方メートルもの規模をもつ大遺跡です。弥生時代の全期間(2300~1800年前)を通じて営まれた、わが国屈指の環濠集落(周囲を溝で囲んだ集落)と言われています。

1976年に環濠に囲まれた範囲を中心に、約115,000平方メートルが国史跡に指定されました。池上曽根遺跡がもっとも栄えた弥生時代中期(2200~2000年前)の姿を現代によみがえらせるために、1995年から史跡整備を行なっています。

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公園の中には、大小さまざまな当時の建物などが復元されており、古民家大好きな私ですが、これはちょっと歴史のスケール感が違うのですよ。

 

こちら、公園の入り口。

入園は無料です。

 

入ってすぐに、案内板が設置されておりました。

木々と撮影者の影が掛かって見にくくてすみません。

国道26号線に面した東側に入り口があり、北側に「まつりの広場」南側に「住まいの広場」、西側に「芝生の広場」があり、さらにその西側が曽根神社と接しており、公園と一体化したエリアとなっております。

 

看板のすぐそばに、こんなものが。

この溝状に掘られた地形は環濠を再現したものらしいです、後で調べて分かりました。現地には説明がなかったように思います。私が見落としただけなのかな?

「古代のハス」も、私には見えませんでした(笑)。

 

そして、その隣には「池上曽根弥生情報館」がありました。

立派な佇まいです。

中に入ってみましょう。

訪れたのは土曜日の昼前だったのですが、閑散としておりました。しかもちょっと荒れた雰囲気が気になります。

しっかり予算を取って、立派な施設を作ったが、そのあとは放りっぱなし、という役所仕事あるあるですね、まさに。

 

さて、いよいよお目当ての遺跡公園へ!

「遺跡の創造復元図」がありました。残念ながら、これではものすごくイメージしにくいです。

 

まずは南側にある「住まいの広場」エリアへ!

歴史の教科書等で見た覚えのある「竪穴式住居」を復元したものが2棟建てられてありました。

しかし、この2棟はフェンスの向こうにあり、近づけません。

「復元歴史施設の老朽化のため、通常公開を取り止めています。見学ご希望の方は池上曽根情報館へおしらせください」という事になっているようです。遠方から見るだけにとどめました。

この公園の目玉ともいえる、北側の「まつりの広場」方面に目を向けると、やはりフェンスで囲われているのが分かりました。

「あれらの建物群も、老朽化が進んでいるのだろうな」と不安を抱きつつも、後でじっくりと見ようと思い、「芝生の広場」エリア方面へ。

東屋も、遺跡の復元建物に雰囲気を合わせた丸太組の建物でした。が、これも中央のベンチの一部が壊れたまま放置されている状況でした、残念。

 

さらに、西側に隣接する「曽根神社」へ。

いかにも歴史を感じさせるような巨木が茂る、清澄な気に満ちた(ように思えた)神社でした。おかげで、ここに来るまでの間にざわついていた心を、少し穏やかに出来ました(笑)。

門前の街並みも、昭和人間の私の心に刺さる雰囲気を漂わせておりました。

 

さて、公園内に戻ります!

神社境内から、公園方面を望んだ眺めです。

{芝生の広場}から「まつりの広場」を望んだ様子。ご覧のようにこのエリアもフェンスに囲まれておりましたが、こちらは1カ所開門されており、中に入ることができました。

いよいよ、本日のメインエベント「まつりの広場」見学へ!

復元建物の配置を分かって頂きやすそうな写真を2枚並べます。

そして、これが現地にあった説明版。

『池上曽根遺跡では、巨大な建物と井戸を中心とする「祭祀(まつり)の場」や、ものづくりに関わる各種の「生産の場」が集落の中心部で営まれていました。重要な「まつりの場」を取り巻くように「生産の場」が設けられていたことから、ものづくりが特別に扱われていたことがわかります』と、ありました。

 

「生産の場」に復元された、小型掘立柱建物2棟。

寄棟と切妻という形で再現されています。

 

いかにも儀式に使っていた感がある「立柱」

その後ろに、「土屋根を持つ竪穴」とメインの建物である「いずみの高殿」と名付けられた、高床式の巨大建物が見えます。

こちらが、「土屋根を持つ竪穴」

屋根の一部をカットして、木下地組が見えるようにしてあります。

 

さて、メインの建物「いずみの高殿」と「やよいの大井戸」です。

『80畳の大きさを誇る高床建物(いずみの高殿)とその南側の直径2.3mのクスノキをくりぬいた巨大な井戸(やよいの大井戸)。周囲にはていねいに石器や土器が埋められ、ここで様々な祭祀(まつり)が行われていたことがわかりました。「まつりの場」の遺構は正方位に合わせて築かれ、中国からの影響が見受けられました』と、説明版にありました。

大型建物「いずみの高殿」を支える柱は全部で26本あり、それらは地面に掘った穴に直接立てられておりました。発掘時、そのうちなんと18本は根本部分が腐らずに残されており、太いものでは直径60センチメートルもあったそうです。

また井戸も、埋った土を取り除くと、滾々と水が湧き出てきたそうです。

発掘者たちは、悠久の時を超えて、弥生の人々の息吹を感じたのではないでしょうか。

 

「いづみの高殿」のアップ写真。

以前は、この建物の東側切妻面に、鉄製の昇降用階段が設けられており、高床の内部に自由に出入りできるようになっていた時の映像が残っています。やっぱり、ほったらかしで傷むのに任せ、危なくなったので撤去、ついでに内部も立ち入り禁止に、という顛末が窺えます。

 

実はこの遺跡の整備事業は、指定区域の1/3の整備が終わった段階で、平成12年に公園としてオープンさせ、その後長年放置されていたのですが、今になって北部の未整備エリアの工事が始まっている様なのです。

古ぼけた施設の中に、新しめのこんな看板が散見されました。

リニューアルに向け、いろいろと活性化を図っているようではあります。資金不足は、クラウドファンディングで市民の力を借りたりもしているみたいです。

弥生時代の歴史の中で、超重要な位置付けをされている遺跡なのですから、大切に扱って頂き、より良い形で後世に伝えて行ってもらいたいものですね。

 

とりあえず、4/14には遺跡の上を熱気球が飛ぶようですから、気になる方はどうぞ!

(梅谷)

 

 

 


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