みなさまこんばんは! 住まいの相談室です!
今年は、元旦に鎌倉市の大仏様に、初詣に行きました。
鎌倉は、初めてであり とても人が多く 駐車場から 片道約2.2キロあり 軽く散歩が
出来ました。 とても 気温が低く寒かったのですが、心地いい 運動が出来ました。
高さは、13M35あるそうです。 草履もありましたが、迫力でした。
鎌倉大仏の =像容
総高(台座を含む)13.35m(18.03m)
仏身高 11.312m(14.98m)
面長 2.35m(5.33m)
眼長 1.00m(1.02m)
口幅 0.82m(1.33m)
耳長 1.90m(2.54m)
眉間白毫直径 0.18m(0.30m)
螺髪(頭髪)高 0.18m(0.21m)
螺髪直径 0.24m(0.22m)
螺髪数 656個(966個)
仏体重量 121 t(250
作風
作者は不明ですが、「慶派」(運慶とそれに連なる仏師達)の作風と宋代中国の
仏師達からの影響の双方を併せ持つ、いかにも鎌倉期らしい仏像といわれています。
各部略説
○白毫(びゃくごう)
仏には常人と異なる「三十二相」(32の身体的特徴)があると考えられています。
眉間の白毫(右巻きの白い毛のかたまり)もそのひとつで、ここからは人々を照らす
光が発せられるといわれています。
○真青眼相(しんしょうげんそう)
紺青色とされる目も仏の「三十二相」のひとつとされます。瞼の下から垣間見ると、
大仏像の目は伏し目をなすよう顔面とほぼ垂直に刻まれていることが分かります。
○頬
創建当初、大仏像の表面は塗金で覆われていたものとおもわれます。
大仏像の両頬には今日なおその痕跡が認められます。
○口
穏やかに結ばれた口元に大仏像の慈愛を感じ取られる向きも多いことでしょう。
彼のLafcadio Hearn(小泉八雲)氏も、その口元にたたえられた笑みを
「東洋的微笑」と賞賛されました。唇を縁取る髭はギリシャの彫像のそれをも連想させます。
○鼻
一見して気づく「三十二相」のほか、仏は「八十種好」(80の微細な特徴)
も持つと考えられています。「高くて真っすぐな、鼻孔がみえない」鼻もそのひとつ
に当たります。大仏像の鼻筋も額からまっすぐ伸びており、鼻孔は仏像の真下
から見上げないと見えません。
○耳
肩に達するほどの福耳、孔の開いた耳朶も、「八十種好」のひとつに挙
げられます。大仏像の耳にもそうした特徴が表現されています。
○手
阿弥陀如来の印相(いんそう 手の形、組み方)は、親指と小指を
除く三指のいずれかを合わせ、両手に輪をつくる点に特徴づけられます。
親指を人差し指の上に乗せない組み方こそやや特殊といえますが、
大仏像は9種類あるとされる阿弥陀仏の印相の中でも最も格式が高い
「上品上生印(じょうぼんじょうしょういん)」を結んでいます。また、
指の間には「三十二相」のひとつである縵網相(まんもうそう
鳥の水掻きのようなもの)も表現されています。
○胎内
胎内に入ると、大仏像が高度な技法を駆使して鋳造されたことに改め
て気づかされます。内壁に見られる大きな格子模様からは、大仏像が
約40回にも分けて鋳上げられた様子も窺えます。また分割・鋳造された
パーツのつなぎ目に、部位に応じ3種の「鋳繰り(いからくり)」が使い
分けられていることも確認できます(「鋳造法」参照)。
鎌倉の戦い とは…
鎌倉の戦い(かまくらのたたかい)は、鎌倉時代後期の元弘3年5月18日–5月22日
(ユリウス暦1333年6月30日–7月4日)に、相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において
、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われ
た合戦。 なお、この元弘の乱の鎌倉における戦いの名称は、いわゆる歴史用語としては
一定ではない。後世の史料上には「元弘三年の動乱」のように見える場合もある。
通称では「新田義貞の鎌倉攻め」「鎌倉攻め」「鎌倉防衛戦」などと呼ばれている。
本項では5月18日より北条高時自害の5月22日までの鎌倉における戦いを「鎌倉の戦い」
という便宜上の名称で記述する。
最後の市街戦[編集]
鎌倉市内では激戦が続き、稲瀬川より由比ガ浜の家々に新田勢が火を放ったため、
鎌倉市内は火災の煙で覆われた。この時大仏貞直、金沢貞将など幕府方有力武将
が相次いで討ち死にしている。現在の宝戒寺(鎌倉市小町)にある北条執権亭にも
火が迫ったため、北条高時ら北条一門は最期であることを悟り、菩提寺である葛西ヶ谷
の東勝寺に集まった。5月22日、北条高時ら北条一門は自害し、滅亡した
(東勝寺合戦)。 フリー百化辞典から引用
住まいの相談室(Y:松永)
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